Home > 最新情報 > 口コミ
 
白塔西路~東中市~西中市
 

拙政園を南に下って行くと、「白塔東路」に突き当たります。今日は、白塔東路を西へ歩いてみます。

白塔西路と臨頓路の交差点に「白塔子橋」という小さな橋があります。ここから「白塔西路 」になります。ここは昔、「白塔子巷」と呼ばれていたそうです。今では二車線の道路ですが、きっとここも昔は細い道 だったのでしょう。ものの本によると、南宋の時代に、付近に鄭虎臣という官吏のお宅があったそうです。鄭虎臣という 人は、賈似道という地方の独裁者を征伐した功績があったとか。  
 
  旧正月2日目。あちら こちらに「春聯」がみえます。親戚の家へ正月の挨拶に訪ねる人でしょう。手に贈り物をぶら下げた人々をあちこちで見 かけます。おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、みんなが集まって、和やかな団欒が待っているのでしょ う。
 
こちらは親戚訪問の贈答品を扱うお店。果物やお花が並んでいます 。
はて、こちらは何屋さんでしょう。「寿衣」って?店先にはどうやら霊園の案内の よう。
葬儀屋さんみたいです。お墓が1軒7960元。西山の太湖に眠るのは、幸せです ね。
 
   
 
公 園がありました。「鄭虎臣故居」という石碑があります。そうか、ここに鄭虎臣のお宅があったんですね。
こちらも贈り物が山積み。それにサトウキビの皮をむいている人あり。サトウキビをかじっている人 をあちこちで見かけます。サトウキビの季節なんでしょうか。
 
 
 
通りの横の古い家をみか けました。瓦のレリーフが美しく、思わず足を止めて眺めていると、おじいさんが「中に入ってみてもいいよ。」と言っ て下さいました。車が行き交う大通りを一歩入ると、奥ゆかしい古いお宅。そこから道側を眺めると、こちらの静寂な空 間と向こう側の喧騒の空間は、全くの別世界です。
 
 
 
人民路を超えると、東中 市です。東中市に入ってすぐ右手に大きな赤い字の「萬福興」という店が見えます。
「萬福興」は、どうやら餅屋さんのようです。餅といっても日本でお正月に食べるような餅ではなく、みかけは羊羹みた いで、もちもちしています。ほのかに甘くて、胡桃や薄荷が入っています。
こちらは 清の時代の創業とか。
 
 
 
それにしても東中市ではあちこちに「五金」と書いた看板をみかけます。
「五金」とは、金・銀・銅・鉄・錫のことですが、広く金属一般を指します。まあ、金物 屋ってとこでしょうか。正月とあって、多くの店がしまっていて、赤い春聯がお行儀よく扉に貼られています。
こちらは、細い三間長屋、ただいま修復中。
こちらは、刃 物屋さんでしょうか。手書きの看板はなんとも味わいがあります。
 
 
     
 
 
そうこうするうちに西中市に入りました。
西 中市に入って小さな橋をわたって数十メートルのところに「六宜楼」という麺屋さんがありました。ローカル新聞により ますと、ここの麺はおいしいと評判のようです。
小腹もすいてきたので、早速中に入 って、大好物の「燜肉麺」を注文。
「燜肉麺」というのは、麺とスープの上に、脂身 たっぷりの1センチほどの厚みのある豚肉をのせたラーメンです。白い脂身の部分が熱いスープに浸ってとろけるのが、 なんとも言えず最高にうまいのです。他のローカルのお店ですと、キノコ類の炒め物とか高菜と豚肉炒め物など、他の種 類の麺よりはちょっと高くて、6元~8元するのですが、なんとここは4元。他に比べると値段がちょっと安い気がします。 麺もこしこしして、おいしい!
 
 
 
さて、麺でお腹が一杯になったところで、斜め向かいに「五福来」という餅屋さ んを発見。ローカル新聞の記事によりますと「豚油糕」が有名なようです。豚油とはラードのことです。この豚油糕は、 日持ちの関係から、冬、特に春節の時期しか作らないそうです。春節の贈り物にはぴったりのようです。
 
 
 
この西中市路は、ちょっと毛並みの違う建物がちらほらと目につきます。中国っ ぽくない、洋館の感じのする建物です。ここにも、あそこにも、ほら、ここにも。
当 時の面影を残す洋館のひとつに「上允雷」という彫り看板のある建物を見つけました。「上允雷誦芬堂」で、雷允上とい う人が1734年に創業した老舗の薬屋さんだそうです。
 
 
     
 
 
閶門が向うに見えてきました。萬福興のお餅を買ったので、
帰って 早速熱いお茶を入れて頂くことにしましょう。
 
 

【西中市】
閶門に連なる西中市路は、宋の時代には、「皋橋西巷」 、明・清の時代には、「閶門大街」と呼ばれ、道の両側には緞子屋、薬屋、宝石商、皮製品、靴屋などの商家が立ち並ぶ繁 華街であったそうです。
ここには、全国から集まってきた中国各地の商人や地元の庶 民にお金を貸す「銭庄」、今でいう銀行ということになりますが、銭庄が集まる蘇州の金融の中心地でした。ロンドンな らぬ「蘇州のシティ」ってとこでしょうか。
清光緒34年(1908年)の統計によります と、その当時、蘇州には24軒の銭庄があり、うち3軒が観前街、閶門外に1軒、残り20軒はすべて西中市路にあったそうで す。その当時、西中市路は現在の蘇州の一大繁華街である観前街、石路よりはるかに栄えた繁華街であったのです。
太平天国の時に戦火の苦難を経て、1935年中華民国の時代には道幅が12メートルに拡 張され、当時一世を風靡していた西洋建築が軒を連ね、さながら30年代の「小上海」の様相を呈していたそうです。

【老舗薬店:上允雷誦芬堂と登録商標紛争】
創業者の雷允上は、名医として有名でした。清の雍正11年(1733年)に大変な疫病がはやり、雷允 上も往診に走り回りました。しかし、なすすべがなく、これを機に翌年雷允上は薬局を開業し、診療と薬の処方を行うよ うになりました。これが「上允雷」の前身だそうです。
老舗「上允雷」の道のりは、 平坦ではありませんでした。太平天国では戦火で破壊されたり、1937年日本軍の侵攻によって蘇州が陥落し、当時日本軍 司令部が置かれていた(現閶門飯店)場所への通行路として建物が撤去されてしまったりしました。
偽造品と登録商標紛争にも巻き込まれました。上允雷の製品の評判が内外で高まり、偽造品が出現しました 。中でも日本人ビジネスマン関渡平兵衛は、1924年偽造品に「雷允」という商標で商標局に申請し、認可を得ました。こ れに気づいた上海総商会が商標局に知らせ、また、蘇州総商会にも知らせ、早急に自己救済を行うよう促しました。多数 回にわたる交渉の末、ようやくこの商標紛争は本家本元の上允雷誦芬堂が勝ち取りました。

 Ⓒ蘇州歴史文化研究愛好家 児玉富久実
 
戻る